最近思うこと
写真を撮るということへ

ぼくは長いこと(といっても十数年だけど)写真を撮っているが、本格的に写真を撮りはじめて間もない友人によると、写真を撮るということは特別なことらしい。子供のころから落書きをするように写真を撮っていたぼくにとっては、今ひとつピンとこなかった。

ぼくは子供のころから「機械」好きだったので、小1か小2のときに父親にねだって110(ワンテン)のコンパクトカメラを買ってもらった。そのころは写真よりカメラに興味があった。月に1本ほどフィルムを買ってもらって、近所の踏み切りや線路際にいって列車を撮ったり、公園にいって友達を撮ったりしていた。いま思うと「なんで写真を撮っていたんだろう?」と思う。たぶん特に理由もなく、ただ撮りたいから撮っていたんだと思う。写真を撮るのは、日常だった。しかし彼には非日常だったようだ。

まぁ、たしかに普通のひと(?)にすればそうかもしれない。普通のひとが人生の中で写真を撮る機会はどれくらいあるだろう?……記念写真ぐらいのもんか。証明写真、集合写真、挙げ句のはては遺影まで。写真を撮られることはあっても、写真を撮ることはそう滅多とないかもしれない。だから、そういう人たちが写真を撮るときは、普段とは違ったことがあるときになってしまう。家族や仲間で旅行にいったとき、親戚一同が集まったときなど、非日常の場面だ。

だが時代は変わってきている。レンズ付きフィルム(通称:使い捨てカメラ)の普及により、普通のひとが写真を撮る機会が増えてきている。最近の女子高生たちに至っては、カバンにひそめ持ち歩いている。彼女たちは学校でクラスメイトなど、日常の生活の中に自然と写真を取り込んでいる。また、最近はデジタルカメラブームで、コンピュータオタクの連中までもがカメラを持ち歩いている。しかしこれは偏見かもしれないが、彼らの撮っている写真は記録写真だと思う。まぁ写真であるからには、何らかの記録性を持っているが、女子高生たちの写真は記録写真ではない。歴とした「表現」の一種ではないだろうか?

このように写真とひととの距離が縮んでいくと、これからの写真が楽しみだ。

7/12/1996